終活をやればいいとは思うのですが、なにから手をつけていいのやら?
両親や親族の死に立ち会って、いつか自分にも訪れることを意識しないと、本腰をいれて終活に取り組めないのが実情です。
終活というアクションを起こすには、前提として死について意識することがないとなかなかできるものではありません。
終活を始めるには前提条件である「死を意識する」そして「死を納得する」まで気持ちが入ってくる必要があります。
死を意識する
若い時、人間はいつか死ぬものであると分かっていても、自分が死ぬとは考えられません。
そこから抜け出せるか。
抜け出すのはどんなことがあった時からだろうか?
「死を意識する」のはいつからだろうか?
2つの要因があるように思う。
1つは老化の兆候です。
肥満、老眼、腰痛、肩痛など老化の兆候がみえてきたころ、40歳以上の年代です。
老化が自分自身に現れてくることで、いつまでも若くない、いつか老人になると感じる。
40歳以上でないとなかなか自分の「死を意識する」ことは難しいと思う。
もう1つは親や親族の死を間近で直接自分の目で見たときです。
身近な人の死は自分事として死を意識し始める。
いつか自分にも死が訪れると。
これは死を意識することです。
でも、遠ざかると他人事です。
死を意識しただけでは終活を始めたところで、時間とともにやめてしまう可能性が大きいです。
終活を始めるは死を意識することから
ここ何年かで「終活」が評判になっています。
私は以下の記事で「終活の目的は家族に迷惑をかけないために、元気なうちに引き継ぎの準備をしておくこと」と書きました。
目的はそのとおりかもしれませんが、終活を始めるキッカケについてはなにも語りませんでした。
その時点で深く考えていなかったというのが、正直なところです。
死を意識すると終活を始めてみようかという気になるのではないでしょうか。
ただ老化の兆候や身近な人の死で死を意識したとしても、一時的です。
仕事など日々のことに追われて、死を意識することが薄らいできます。
実際のところ、薄らぐとともに終活を忘れてしまうことが多いです。
死に納得する
次に死を意識するから死に納得する段階に入ってきます。
死に納得するとはどんな段階でしょうか?
これも2つの要因を考えると1つは退職、自営業であれば引退
退職や引退、社会の第一線から退くこと、むかしで言えば隠居です。
もう1つは老化の延長線上にある病気です。
死に直結するような病気にかかった場合です。
特に死に直結するような病気の場合は死を意識するといったレベルではない。
人間は必ず死ぬということを、自分に言い聞かせるしかない。
自分の死を納得するしかない。
ところで人間社会においては、自分だけの力ではどうしょうもないことを、年を取るにつれていくつも経験してきます。
例えば大学へ行きたかったが、諦めて就職した。
都会へ出てやりたい仕事に就きたかったが、家業を継いだ。
部長に昇進したかったが、なれなかった。
子宝に恵まれなかった等など。
自力ではなんともし難いことを諦めてきた。
諦めるとは「明らかに極める」が語源だそうだ。
しかし先程の例は本当に諦めたのだろうか?
大学に行くこと、やりたい仕事に就くこと、部長に昇進すること、子供ができることを極めたわけではなくで、単に妥協しただけである。
妥協することで別の価値観を無理にでも見つけて、自分を納得させているのである。
妥協があるところに「明らかに極める」ということはなかったのではないか?
少しはあったとしても相当薄いものであったのだろう。
死は大学進学や仕事とは違う。代替えで妥協することはできない。
死に代わるものはない。
明らかに死の本質を極めるしか道はないのである。
妥協という道は残されていない。
妥協でお茶を濁すことはできない。
死は妥協のない諦めでしか納得することができない。
死を納得するとはそのようなことであるような気がする。
自分事として